青函連絡船就航に尽力、広瀬氏の功績知って 没後100年で子孫が頌徳碑訪問
update 2017/3/7 08:20
1908(明治41)年3月7日、北海道と本州を結ぶ青函連絡船が開設された。明治後期に“夢の大地”北海道へ移住を目指す人が多い中、それまであった青函航路の鉄道会社経営と大型船導入を提言し、実現させた鉄道事務官、広瀬孝作氏(1858・安政5〜1917・大正6年)の頌徳碑(しょうとくひ)が、七飯町大沼の昭和寺にある。このほど子孫が寺を訪れ、「青函連絡船で残した功績を知ってもらえれば」と話した。
広瀬氏は栃木県三重村(現・足利市)生まれ。1882(明治15)年に同県議となり、両毛鉄道(現・JR東日本両毛線)を企画(その後入社)。90(同23)年、第1回衆議院総選挙に立候補したが、足尾銅山鉱毒問題に取り組んだ田中正造氏に敗れ落選。その後、総武鉄道運輸課長などを経て1903(同36)年7月、日本鉄道青森駅長に招へいされた。
同年10月、北海道鉄道の函館−小樽間が開通。一方で青函航路は日本郵便が行っていた。世界中で鉄路と航路は立場の違いから一体で運航することは困難だったが、広瀬氏は北海道が鉄道延伸により人口が増加し、青函航路の旅客・貨物輸送量も増すことで、日本鉄道が青函連絡船を運営すべきと説いた。さらに英国に発注したタービン汽船(比羅夫丸、田村丸)よりも大型船が必要になるなどと、青函連絡船全盛期到来を予言した。
その後、日本鉄道の国有化に伴い官公吏(かんこうり)(公務員)となり、旭川運輸事務所長から07(同40)年12月、函館運輸事務所長に着任。翌08年、努力が実った青函連絡船が開通し、さらに船舶業務に尽力した。16(大正5)年8月に退官すると、函館では物産商の有志が函館区長に推薦。約370人の推薦状が区会に提出されたが、広瀬氏は区長就任を固辞。翌17年6月、病気で死去した。今年は没後100年となる。
大沼公園駅に近い昭和寺境内に21年10月、鉄道院総裁・後藤新平が揮ごうし「廣瀬孝作君頌徳碑」が建立された。現在は風雪にさらされ、碑文の欠落が目立つ。
仙台市在住で広瀬氏の曾々孫にあたる須藤昭典さん(39)は、「鉄道職員だった孝作も新幹線開業を喜んでいると思う。海を渡ることにさまざまな思いを持っていた人物のことを示す碑の存在を知ってほしい」と話す。
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