遺愛の名付け親 内藤鳴雪研究の黒川さんら来校

update 2019/5/26 06:07


 明治、大正期の文学者で俳人の内藤鳴雪(本名・素行、1847〜1926年)の研究者、黒川悦子さん(71)=国際俳句交流協会理事=が25日、遺愛学院(福島基輝理事長)を訪問した。鳴雪は同校創立期に教頭を務めた弟の宇野兼三(1854〜1937年)の依頼で、1885(明治18)年に校名を「遺愛」と名付けた人物。福島理事長(62)や宇野に詳しい元教員の作山宗邦さん(81)らと懇談した。

 黒川さんは鳴雪の研究で博士号を持ち、俳句のユネスコ無形文化遺産登録を目指す活動にも力を注いでいる。同校OGで同協会員の船矢美幸さんが昨年6月に「スウェーデン・日本俳句交流の旅」に参加し黒川さんと出会い、鳴雪と遺愛を接点に交流が生まれ、今回の訪問につながった。

 鳴雪は伊予松山藩(愛媛県)の出身で、8歳で漢籍の素読を始め、藩校「明教館」に学んだ。明治時代には俳句の師となる正岡子規も入寮した松山出身者の寄宿舎「常盤会」の舎監を務めた。

 一方の同校は、74(同7)年にハリス夫妻が礎を築き、多額の献金を寄せた駐独米公使夫人の名を取り、82(同15)年にカロライン・ライト・メモリアル・スクールとして開校。遺愛百年史など学校史には英校名が浸透せず、日本名を検討し、宇野が兄の鳴雪に依頼し遺愛女学校となった経緯が書かれ、鳴雪の自叙伝にも「その資金の来歴に依って、私は遺愛女学校と名を与えた」と記されている。鳴雪が俳句を始める以前のことで、中国の古典「春秋左氏伝」を典拠にしたとみられている。

 黒川さんは「兼三は兄を尊敬していたのでしょう。鳴雪は清貧を好み、正義感が強く、偉ぶらない人物。俳人と言うより、文人という印象が強い。鳴雪であれば(遺愛女学校と)揮毫して送っていたのでは」などと話した。仮に存在していたとしても、1907(同40)年8月の函館大火で元町にあった校舎や黎明期の資料とともに焼失した可能性が高いという。

 また、同行した国際日本文化研究センターで外国人特別研究員としてベトナムから来日しているグエン・ヴー・クイン・ニューさん(50)は、ハリス夫人が英訳した紀貫之の土佐日記に関心を示し、福島理事長からはベトナム語の俳句について質問を受けた。黒川さんらは旧宣教師館で同校同窓生とも懇談した。

 「春秋左氏伝」の中の「遺愛」 儒教の経書の一つで、中国・春秋時代(紀元前770年〜紀元前5世紀)の魯国の史書「春秋」の注釈書である左氏伝の昭公20年(紀元前522年)の章に「及子産卒、仲尼聞之、出涕曰、古之遺愛也」と記載がある。孔子が尊敬していた鄭の名宰相・子産が亡くなり、涙を流して故人をしのんだという一節で「いにしえの遺愛なり」について、作家の宮城谷昌光は「子産」(講談社文庫)の後書きに「今の時代にはほとんどみられぬ、古人の遺風をつたえる、愛しかたをする人であった」と解釈を載せている。

提供 - 函館新聞社

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