東日本大震災5年、被災者それぞれの思い
update 2016/3/11 10:16
2011年の東日本大震災で被災した人、被災地から避難してきた人、支援に当たった人たち…。それぞれの立場で、この5年間の思いを語った。
「もっと何かできたのではないかと反省することばかりで…。避難者の人たちのために何ができたのだろうか」。東京電力福島第一原発の放射能事故の影響で福島県から函館、道南に自主避難した人たちでつくる連携組織「福島避難者ネットワーク函館」の代表、鈴木明広さん(56)はこの3月末で代表を後任に引き継ぐ。
放射能汚染を懸念し、震災発生から半年後の9月に福島市から函館に家族とともに避難してきた。翌年の12年6月、連携組織の立ち上げに携わり、代表を務めた。
福島に戻らずに道内でついのすみかを探す。避難する前までの職業だった塾講師の再開を目指しており「お世話になった恩返しとして、子どもたちの学習指導がしたい」と話す。
福島県南相馬市から函館市内に自主避難した太田実和さん(42)も帰還せず自立する道を選ぶ。放射能への不安や恐怖はぬぐい去ることはできず、南相馬市で暮らす夫とともに熟慮を重ねた結果「子どもたちの健康が何よりも大切」と覚悟を決めた。
原発事故直後の3月15日、着の身着のままで夫の実家の函館に避難。夫は間もなく南相馬の自宅に戻り、仕事を続けて家計を支える。以来生活費の二重負担の日々が続く。避難当初、生活環境が変わった上、先の見えない不安やストレスを抱えたが、2人の子どもたちが泣き言を言わず、前向きに受け止めてくれたことが救いだった。単身で生活する夫とはテレビ電話を通じて毎日顔を合わす。
「家族の結束が強まり、一つのチームのようになった。離れていても気持ちは一つ。それが宝です」 函館市内有数の観光地、函館朝市は震災による津波の被害で多くの店が浸水し、翌日から休業に追い込まれた。函館朝市協同組合連合会理事長の井上敏廣さん(67)は「忘れることができない。いや、忘れてはいけない出来事」と語る。
震災直後、市役所職員を中心とした多くのボランティアが散乱したがれきの撤去をし、復興を後押しし、人の温かさを感じた。「震災前までは正直、お客の安全までは考えていなかった。もしあの震災が朝だったら。安全も考えた商売も大切だと感じている」。その思いを胸に抱きながら朝市の発展に力を尽くす。
市地域交流まちづくりセンター長の丸藤競さん(51)は11年9月から約1年半、さわやか福祉財団が派遣するインストラクターとして、岩手県釜石市にある仮設住宅のコミュニティーづくり支援に当たった。
毎週末釜石市に通い、サロン活動を企画。新たなコミュニティー形成に試行錯誤が続いた。通い出してから半年後の12年2月、住民同士の交流会があった。いつになく盛り上がり、家族全員を失った女性が「自分だけ生き残ったのがつらかったが、生き残っていて良かった」と打ち明けた。支援に入って良かったと思えた瞬間だった。
支援に100%はなく、災害もいつ起こるか分からない。丸藤さんは「さまざまな人の経験、ノウハウを共有しながら常日ごろから大災害時の支援の在り方を考えていくべきだ」と提起している。
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