父の東京大空襲戦災死亡・罹災証明書など保管/「語り継ぎはこれから…」

update 2005/4/6 10:16

 「爆撃ニヨリ焼死」―。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で亡くなった、一人の男性の戦災死亡証明書だ。所有しているのは、父が犠牲となった函館市本通2の無職、岸部宏子さん(68)。同空襲に関する著作がある作家の早乙女勝元さんにコピーを送ったところ、先月中旬、早乙女さんが館長を務める「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区)に寄託したと、礼状が届いた。早乙女さんはつづっている。「証明書はとても痛ましいですね。よく保存されていました。大空襲60年(中略)。しかし、戦禍の語りつぎはこれからが大事です。お元気でどうぞ」―。

 空襲で父・重治さんを失い、母・光子さんが交付を受けた罹災(りさい)証明書など4点のコピーを、戦後60年を機に、岸部さんが出版社を通して早乙女さんに送った。4点の証明書は、90年に亡くなった光子さんが「戦災の書類。取って置くとよいと思います」と封書に記し、長女の岸辺さんに託した。

 重治さん、光子さんはともに函館出身。最も爆撃が激しかった深川区(現・江東区)の隅田川のほとりで、親子4人で暮らしていた。「空襲警報が発令され、防空壕(ごう)によく避難しました。私は昭和20年の1月ごろ、妹と両親を残し母の実家へ疎開しました」と、岸部さんは記憶の糸を紡ぐように語る。

 3月10日、死者10万人を出した爆撃が、深川を襲った。深川区永代一丁目町会が出した重治さん(当時40)の戦災死亡証明書には「爆撃ニヨリ焼死」、警察が出した戦災死者検視調書には、調べた場所が「東京都深川区自宅」とある。重治さんは自宅から逃げ遅れた。光子さん(当時32)は3歳の二女を背負い、防空壕へ命からがら避難したという。

 光子さんは手袋と上着の間、足袋ともんぺの間、顔など外にさらした部分に大やけどを負った。当時の東京慈恵会医院が同年5月14日に出した証明書には「昭和廿年三月十日、戦災傷者トシテ本会医院ニ入院、治療中ナルコトヲ証明候(そうろう)ヤ」とある。

 光子さんは空襲のことをあまり語りたがらなかったという。ただ、生前「B29が屋根すれすれに飛んで、まるで1軒ずつに焼夷(しょうい)弾を投下していった。防空壕まで火の海だった」と語ったという。

 罹災証明書は同年3月に光子さんの名義で深川区長が出している。入院中の光子さんに代わり、重治さんの兄が代理で申請したとみられる。証明書には47年に「恩賜」の形で、函館市を通して真綿などが交付されたことが記されている。

 45年8月15日の終戦は、岸部さんと光子さん、妹の3人がそろって函館で迎えた。光子さんは「もっと早く終戦になっていれば、こんな目に遭わなくてよかったのに」と号泣したという。「夫を亡くし、自身も大やけど。大空襲や広島、長崎への原爆投下など、すべての犠牲者を思って出た言葉でしょう」と岸部さん。

 岸部さん自身は直接の空襲体験はないが、函館空襲(同年7月14日)では防空壕へ逃げた経験もある。「体験者も語り継ぐ人も少なくなりました」

 函館に疎開し難を逃れたが、戦後は光子さんが娘2人を育て上げた。岸部さんは「親子2代で大変な思いをした。子供や孫には戦争の悲惨な思いは絶対させたくない。早乙女さんに送った証明書も何らかの形で役に立てば」と切に願っている。

提供 - 函館新聞社



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