「洞爺丸台風」50年前のあの日(5)

update 2004/9/24 10:35

 遺体の引き揚げ作業は難航していた。事故現場となった七重浜には、無数の遺体が打ち上げられたが、無残な姿で横たわる洞爺丸船内にはまだ多くが残されたままだった。

 函館には、全国からダイバーが集められた。四国から大下開(28)が駆けつけたのは、事故から1週間ほどたったころだった。海底での船内捜索には慣れていたが、洞爺丸はあまりに大きい上、船が横倒しになって転覆していたので、頭の中に船内構造を描けずに苦労していた。

 海中で客室のドアを開け、ライトを照らすと人影がない。「さっぱりいないな」と思って見上げると、たくさんの遺体が海面方向に重なって張り付いている。遺体は、リレー形式で、何人ものダイバーの手を伝ってボートへと運ばれた。

 「私は戦争体験で(こういう現場は)慣れている。それでも、仏さんの親族が泣き叫びながら現場に来る姿を見ると、胸がいっぱいになった」

 水死体の中には、母親の足にしがみついたままの子供、わが子を抱えて離さない若い母親の姿などもあった。ダイバーたちは、潜水服の中で涙を流さずにはいられなかった。

 日本サルベージ函館支店に勤めていた西川儀三郎(28)は当時、厚岸に出張していた。事故後、10月中ごろから船体検査に加わった。真っ暗な船内に手探りで入り、エンジンルームや機関室、船外のスクリュープロペラ、船底と海面との接触状況などをくまなく見て回った。

 「いかに、しけの威力が恐ろしかったか…」。すでに遺体は引き揚げられた後だったが、当時の惨状を船は無言で物語っていた。

 海中での遺体捜索は連日続いた。引き揚げ場所では、待っていた遺族がなきがらとの再会に泣き崩れた。海に向かって手を合わせ念仏を唱える人、大声を出して家族の名前を叫ぶ人…。乳飲み子を背負い、幼子の手を引く女性もいた。「せめて遺体だけでも…」の願いもかなわず、来る日も来る日も待ち続ける人の姿もあった。

 洞爺丸の乗員・乗客1314人のうち、1155人が犠牲になった。生存者はわずか159人。懸命の捜索にもかかわらず、最後まで見つからない遺体もあった。

 (文中敬称略、年齢は当時のまま)

提供 - 函館新聞社



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