「洞爺丸台風」50年前のあの日(4)

update 2004/9/23 11:30

 青函連絡船の操舵係を務めていた宮澤清一(30)はその夜、ラジオで洞爺丸の遭難を知った。招集に備えて自宅待機していたが、そのうち自発的に青函局へと向かった。

 函館桟橋には次々と遺体が運び込まれてきていた。宮澤は、遺体収容先である市内大森町の慰霊堂へ向かった。多くの遺体が並んでいた。水ぶくれなどで顔形が判別できない遺体もあった。遺族はもちろん、やじ馬もたくさん集まっていて、慰霊堂の周りは大変な混雑ぶりだった。

 遺体の中には、乗組員仲間の姿もあった。だが、悲しみに浸ってはいられなかった。「私的なことを考える余裕はなかった。とにかく乗客の確認作業に追われていた」

 そのころ、宮澤の親戚は「宮澤清一死亡」の誤報に揺れていた。死亡者名簿に間違って宮澤の名前が記載されていたのだ。名簿を見た東京の姉妹が慌てて函館に電話を入れたが、回線がパンクしていて連絡のつけようがなかった。

 25日に洞爺丸を降り、自宅にいた北西明(28)は、何も知らないまま27日を迎えていた。「洞爺丸が沈没した!」。早朝、友人にたたき起こされると、半信半疑で函館桟橋に走った。駅前に着くと、「連絡船洞爺丸沈没」の掲示が目に飛び込んできた。

 北西は、遺体搬送作業に加わった。28日にはタグボートに乗り込み、遺体捜索や引き揚げ作業に従事。遺体の確認、遺族の対応などにも追われた。「慰霊堂の中は、遺族の悲しみと遺体の異臭、焼香用の煙とにおいで目も開けていられない重苦しい状況だった」という。

 函館鉄道管理部にいた堀井利雄(30)の任務は、全国から函館へ駆けつける遺族への対応だった。ホテルや旅館の手配を任された。来函する遺族はピーク時で3000人近くにも達した。堀井は毎日、バスで遺族を宿泊先や七重浜などに送迎した。

 遺体の火葬は、市営火葬場ではとても足りず、七重浜の砂丘には板塀で囲った野天火葬場が設けられた。薪と木炭に石油をかけ、その上に遺体が並べられた。突然、愛する家族をむごい形で失った遺族は悲しみに打ちひしがれていた。野天火葬場には、遺族の泣き声と、上空を飛ぶカラスの鳴き声が悲しく響いた。遺体が焼ける灰色の煙とにおいが辺りを漂っていた。

 「生者には悲しみは苦しみをこえる

 死者には苦しみをこえる悲しみはない

 入口が出口であり出口が入口であるここ

 見知らぬ懇意のようなものが

 列をなしてぞろぞろ出てくる

 この荒れた野ずらの風景

 海からの風はいったいどこへ吹いてゆくのだ」

 あまりに寂しい光景。交錯するさまざまな思いを胸に堀井は「野天火葬場」という詩を書いていた。

 (文中敬称略、年齢は当時のまま)

提供 - 函館新聞社



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