洞爺丸台風・50年前のあの日(3)
update 2004/9/22 10:11
機関室からデッキに上がった二等機関士の川上昭夫(27)は、機関長の命令で非常発電機の準備をしていた。激しい風浪と揺れの中でも「何とか持ちこたえるだろう」と信じて疑わなかった。
だが、船は沈没。川上はボートダビット(救命艇進水装置)にしがみついた。「そのうち救助が来るだろう」。しかし、大波は容赦なく川上を海へ投げ出した。
割れた窓から波に飲み込まれた住岡秀雄(20)。気付いた時は海の上だった。救命ボートには50人くらいの人がつかまっていたが、大波が来るたび人影が消えていった。
波と人にもまれるうち、足がワイヤにからまった。波が来るとワイヤに引っ張られ、体ごと海底にたたきつけられた。3回くらい繰り返されると、気が遠くなった。「もうだめかな…。陸(おか)に上がってもう一度歩きたい」。そんな思いが頭をよぎったころ、ワイヤがはずれた。
波に身を任せていると、船のサーチライトが海面を照らした。七重浜に乗り上げていた第六真盛丸だった。ライトの方向に行こうとして、船体にたたきつけられ死んだ人もいた。住岡は船を避けるようにして波に流され、浅瀬までたどり着いた。
機関部の田近信美(25)も同じころ、荒れる海と戦っていた。暗い海上では、どちらが陸かも分からない。もがき苦しむ中、体がアンカーに触れた。アンカーは船に引きずられるように浅瀬近くまで動かされていた。「もうすぐ陸だ」。自分を奮い立たせた。
七重浜の浅瀬にたどり着いたものの、安心感と極度の疲労から体に力が入らず、海から出ることができない。「ここにいたらまた流されるよ」。先に助かった人に手を引かれ、はうようにして死の海から抜け出した。
当時、北西明(28)と佐々木力男(32)は、摩周丸に乗務していた。北西は二等航海士、佐々木は甲板係だった。だが、摩周丸は浦賀ドックで検査工事の最中。2人は洞爺丸の代務員に編入された。24時間の交代勤務体制。北西は25日に下船、佐々木は26日に乗船していた。
転覆の瞬間、佐々木はブリッジの防護さくにつかまり、中ぶらりんになった。「よし行くぞ」。仲間とともに無我夢中で船の腹(側面)に駆け上がったものの、家の高さほどある大きな波に一瞬にして飲み込まれた。波にもみくちゃにされる中、木材や家具などの漂流物が頭や体にぶつかってきた。
ふと気付くと、砂地に足がついた。最後の力を振りしぼって海面からはい上がった佐々木は、浅瀬から出られずにいる3、4人を砂地へと引っ張り上げた。そして、水浸しの救命胴衣を着けたまま国道まで走り、手を上げてトラックを止めた。
「洞爺丸が沈んでいる。助けてくれ」。必死の形相で運転手に助けを求めた。
ほかの生存者とともにトラックの荷台に乗せてもらい、病院へ向かった。函館市内の病院には負傷者が次々と搬送され、院内には低いうめき声が響いていた。
(文中敬称略、年齢は当時のまま)
提供 - 函館新聞社
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