「洞爺丸台風」50年前のあの日(2)
update 2004/9/21 10:13
航行不能となった洞爺丸は、強大な風浪に押されるようにして、七重浜に流されていた。その時、船底に軽い衝撃があった。午後10時26分、船は座礁した。
船体は徐々に右へと傾いていた。傾斜が45度に達したころ、三等航海士の小石川忠男(28)は「SOSを打ってくれ」という船長命令を受け、無我夢中で階段を下り無線室に向かっていた。大きく傾いた船内では、階段を下りることも無線を打つことも容易でない。無線通信士は、足をひっかけて腹ばいになり、死に物狂いでSOSを打った。
「本船500KCにてSOSよろしく」
これが洞爺丸最後の通信となった。
売店では、激しい揺れであらゆる商品が棚から落ち、ガラスケースまでもが倒れた。二等客室を担当していた住岡秀雄(20)は、営業終了時にかけるカバーで商品の山を覆うと、仲間とともに三等客室の売店へと避難した。
客室では、船酔いで吐いている人がたくさんいた。泣いている子供もいた。「これは大変なことになった」。船の窓からは街の明かりが見えていたが、やがて停電のため消えてしまった。そのうち、船のガラス窓が割れ、海水がどっと入ってきた。直後、船は右へ横倒しになり、それと前後して船内の電気がすべて消え、真っ暗になった。
割れた窓から顔を出した住岡は、波の勢いで一気にさらわれ、荒れ狂う海へと放り出された。
調理師の秋保栄(21)はそのころ、仲間とともに一・二等客室のレストランホールにいた。ついさっきまで、客の注文でカツを揚げていた。だが、高温の油を入れた鍋はレンジの上を横滑りし、食器類はすべて棚から落下。危険を感じてオーダーストップをかけ、仲間の調理師らと避難してきたところだった。
レストランには、相当数の乗客がいた。日本での任務を終え、何年ぶりかに母国へ帰ろうとしていた米軍兵とその家族の一群もあった。もはや立っていられる状態ではなく、秋保は固定式のテーブルに必死にしがみついていた。
「バタバタバタ、ドーン」。ものすごい音がした。船内に積んであった貨車が倒れる音だった。レストランには、悲鳴や泣き声が響いた。「地獄だった…」(秋保)。船が大きく右へ倒れると、人もいすも灰皿も一気に右へなだれ込んだ。人の重みでドアが開き、船外に放り出された人もいた。
激しい揺れが襲ってくるたび、船は大きく傾き、人や家具の山がどっと移動した。停電で船内は真っ暗だったが、下敷きになって死んだであろうボーイの手が、懐中電灯を握り締め天井を照らしていた。
(文中敬称略、年齢は当時のまま)
提供 - 函館新聞社
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