「洞爺丸台風」50年前のあの日(1)
update 2004/9/20 20:27
滝を逆さまにしたかのような激しい水平線だった。函館港外に出た洞爺丸の甲板から海を見た三等航海士の小石川忠男(28)は、怖さで身震いした。「空に向かって水しぶきが上がっているような感じだった。地球が壊れるんじゃないかと思った」。その光景は、50年たった今でも目に焼きついている。
1954(昭和29)年9月26日。青森から乗客を乗せ、午前11時5分に函館へ到着した洞爺丸は、台風15号(通称・洞爺丸台風)を警戒して午後2時40分の出港を見合わせていた。乗客を乗せたまま、函館港に待機すること実に4時間―。
調理場ではこの間、乗客の注文が相次ぎ、おおわらわの時間を過ごしていた。往復分の食材は、この4時間でほとんど平らげられてしまった。米、肉、ハムなど、大量の食材を急きょ追加注文し、船内に積み込んでいた。
運命の銅鑼(どら)が鳴り響き、洞爺丸が青森へ向けて出港したのは、午後6時39分。船には乗客1167人、乗組員147人が乗り込み、ほぼ満員状態だった。
青空がのぞき好転したかに見えた天候だったが、出港して間もなく、暴風雨に見舞われる。洞爺丸は、午後6時55分に函館港西防波堤灯台を通過するも、航海続行の危険を感じ午後7時1分、西防波堤灯台から方位300度、1574メートルの地点に錨(いかり)を投げ込み、仮泊した。
「アンカー(錨)を入れます」という船長命令を聞いた二等航海士の山田友二(29)は「青森には行かない。しけが収まるのを待つんだな」とすぐさま察した。
普段であれば、錨を入れた船は静かなもの。だが、この日の船は違った。風速計の針は突風が吹くたび激しく揺れ、瞬間風速は58メートルにも達した。ローリング(横揺れ)とピッチング(縦揺れ)を繰り返しながら、船は錨を軸に180度、振り子のように揺さぶられた。
船を飲み込むかのように襲ってくる高波は、船尾から船内へと浸入。船底にある機関室では、排水ポンプを使って海水を流し出す懸命の作業が続けられていた。
「最初はザーという程度だったが、最終的には滝のような浸水。防水対策も、入ってくる水の勢いには勝てなかった」と語るのは、二等機関士の川上昭夫(27)。
当時、川上の担当は操縦管。台風により左右に振り回される船を何とか立て直そうと、ブリッジからは「前進全速」「後進全速」と、極端な指令が繰り返された。大きな操縦ハンドルを2人がかりで力いっぱい握り締め、操船に全身全霊を注いだ。だが、やがて浸水によりエンジンは使用不能となってしまう。
「エンジンが利かなくなった船は、両手両足がなくなったも同じ。台風のなすがまま。もう、正常な状態では立っていられなくなった」
(文中敬称略、年齢は当時のまま)
宗 Α・旬r
海難史上、国内最大の惨事となった洞爺丸台風事件。日本中を震撼(しんかん)させ、多くの尊い命を奪ったあの日から、26日で半世紀がたつ。鎮魂と教訓の思いを込め、関係者の証言を基に当時の惨劇を今一度振り返る。
提供 - 函館新聞社
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