函館大火から70年

update 2004/3/21 12:12

 1934(昭和9)年の函館大火。3月21日夜、住吉町から上がった火の手は強風にあおられ、瞬く間に広がった。約2万4000戸の建物を焼き尽くし、2166人の死者を出し、世界的にもまれに見る大惨事となった。あれから70年―。長い年月の経過とともに、大火を体験し、その悲劇を伝える人は少なくなってきた。函館市内の被災者3人に、当時の記憶を呼び覚ましてもらった。


 平林欣一さん(77)=上野町27

 わたしは小学1年生だった。父親とおばと3人で松風町に住んでいた。火災が発生した日は、どんより曇った日で風が強かったのを妙に覚えている。時間ははっきり思い出せないが、「火事だー」と家の周りが急に騒がしくなった。逃げようとした時、火の波はすぐそばまで接近しており、窓ガラスに真っ赤な炎が映っていた。

 火の粉をかいくぐり父親に手を引かれ、海岸の方へ逃げ、亀田川の橋を渡ろうとしたが、橋上では人と馬車でびっしりだった。渡れなかったので、近くの砂浜でじっとしていた。

 海の波は高く、前からは炎、後ろから高波が来て、恐怖に打ちひしがれた。

 突然、目の前の橋が崩れ落ち、たくさんの人が、濁流に飲まれていく光景を目にした。「ウォー」。人が流されていく声。あれは生き地獄だった。あの時の異様な声はいまだに耳から離れない。かまが倒れ、中の熱湯をかぶって死んでいく人も見た。

 街はまさに焼け野原。浜から函館駅が遠くにかすんで見えた。翌日から木古内の親戚宅でしばらく暮らしたが、父親が必死になって守ってくれたことが印象深い。


 太田一枝さん(78)=上湯川町38

 当時、小学2年生。堀川町に住んでいたわたしたち家族が火事を知ったのは、発生からかなり経過してからだったと思う。火の粉が舞い、突風でトタン屋根が飛び交う中をひたすら歩いた。

 途中、父、母と分かれ、わたしは4歳下の妹の手を引き、祖母、弟とともに逃げた。祖母は赤子だった弟をおんぶし、わたしは妹の手を引き、砂山(日乃出町)の広場まで逃げ込んだ。

 祖母が、落ちていたむしろを覆いかぶせてくれ、祖母と妹と寄り添いただじっとしていた。祖母が「寝たら死ぬ。寝てはだめ」と言い続けた。わたしは死にたくなかったので、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えていた。

 うっすら明るくなり、周りを見渡すと、たくさんの死体が転がっていて、あらためて恐怖におののいた。

 その後、わたしたちは千代台町の親戚のところへトボトボ歩いた。死体が転がっている道を、ただぼうぜんと歩くしかなかった。焼死体だけでなく、凍死した人、崩れ落ちたがれきや飛んできたトタン板に激突して亡くなった人もいたのではと思う。

 千代台町に着いた時、ちょうど炊き出しのおにぎりをいただいた。ほお張った時、生き延びたことを実感した。


 富原章さん(83)=日吉町4

 小学6年生で、函館公園近くの青柳町に住んでいた。わたしは7人兄弟の長男で、下には生まれて間もない妹もいた。当日は確か小学校の卒業式だったと思う。

 火事は、夕食を食べようとしていた時に起きた。父親は、母親と妹、弟たちを先に避難させた。わたしは父親とともに、家財一式を裏の函館公園に運んで、家の財産を守ることに専念した。しばらくすると、公園内にも猛火が襲いかかり、わたしたちは、ご飯の入ったおひつを持ち、母親や兄弟たちが待機している高台へ逃げ込んだ。

 高台に逃れても火の手はどこまでも強く、とにかく火の粉振り払ったり、くすぶっている火を消し止めたりして、時間を過ごした。

 眼下に広がるのは、まさに火の海だった。死ぬという恐怖はなかったが、見たこともないような恐ろしい光景が広がっていた。当時の状況は、ほとんど忘れてしまったが、長男だったのでしっかりしなければという気持ちだった。新築の家だったので、その後、父と母は大変苦労をしたと思う。

提供 - 函館新聞社



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