日本の歴史に風穴、国際都市の基盤築く
update 2004/1/2 11:11
日本の開国をもたらしたペリーが1854(安政元)年、箱館に来航してから、今年で150年の節目にあたる。ペリー率いる黒船は、200年以上続いた鎖国の眠りを覚まし、日米和親条約の締結で下田とともに開港された函館に、国際性豊な文化が花開くきっかけをつくった。
ペリーは、1853年(嘉永6)年、黒船を率い空砲を打ち鳴らしながら、幕府のおひざ元に近い浦賀沖に姿を現した。ペリーは、捕鯨船などに燃料や食料・水を補給するため、開港を要求。大統領の親書を幕府に突きつけ、結論までに1年の猶予を与えて一度は日本を去った。
翌年、ペリーは5隻の艦隊とともに、再び日本を訪れた。幕府との交渉で箱館開港が決まると、調査のために箱館にいかりを下ろし、24日間滞在した。現在末広町の町名主・小嶋又二郎は、ペリー来航前後の記録をスケッチを交えた「亜墨利加一条写」として、書き残している。
小嶋は、後に五稜郭を設計する武田斐三郎の義兄。武田も通訳として、松前藩とペリーの会見に臨んでいる。「一条写」などによると、ペリーの来航を知った松前藩は、女性や子供を隠し、牛や酒、貴重品も人目につかぬ場所にしまい込むようお触れを出した。海岸線には塀を設けるなどし、ペリー来航に備えた。
新暦5月11日には、先遣隊として3隻の黒船が姿を現した。ペリーの艦隊は、2隻の蒸気船と3隻の帆船からなり、旗艦の蒸気船「ポーハタン号」は2500トンクラス、一番小さな運送用の帆船でも500トン以上。10石を1トンで換算すると千石船でもわずかに100トン。船体を黒く塗った大型船3隻が発見されると、半鐘が打ち鳴らされ、引越しを急ぐ住民で町は大騒ぎ。見物人を防ぐ取り締まりの役人が、早馬で町を駆け回った。
ペリーが乗ったポーハタン号の入港は5月17日。落ち着きを取り戻した住民は、むしろ冷静に友好的にアメリカ人を迎えた。松前藩は当初、アメリカ人との商品売買を禁じていたが、沖の口役所に限って売買を認めた。「一条写」には、滞在中の売り上げ1600両、松前藩勘定奉行の石塚官蔵は1440両余りと書き残している。
郷土史家の井上能孝さんは「ペリーは当初、松前付近の開港を望んでいた。もし、函館が開港されていなければ、どうなっていたか分からない」という。ペリーは、日本の歴史に風穴を開けた。箱館開港は、日本と西洋の文化がこん然となった独特の文化を生み、現在の国際観光都市の基礎を築いた。
ペーリー艦隊の滞在期間中、2人の水兵が亡くなり、箱館に葬られたた。これが外人墓地の始まり。一行は、亡くなった水平への追悼の詩を残して箱館を離れた。追悼の詩は、ペリー来航記念100周年記念事業が行われた1954(昭和29)年に、英文と和訳で石碑に刻まれ、現在も外人墓地で函館港を見つめている。
提供 - 函館新聞社
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