無縁仏の供養願う
update 2003/11/18 12:15
元函館市職員で、船見町27の市斎場(火葬場)の管理を親子2代で務めた長谷川實さん(80)=七飯町大川9の22=が、火葬場向かいの海側斜面に土葬された無縁仏の供養を願っている。行旅病死者(行き倒れの人)が葬られた光景の記憶などをつづった「函館山考」「死者との語らい」をこのほど自費出版。長谷川さんは「知られていない事実を伝え、無縁となった方を供養する霊園をつくりたい。生き証人の最後の願い」と話している。
長谷川さんは父、義兼さんが火葬場の管理人となった1932(昭和7)年から家族で同所へ移り住んだ。父亡き後に兄が引き継ぎ、兄の退職後の77年から82年まで、自身が管理係に着任し、妻の豊佐子さん(75)と住み込みで勤務した。無縁墓地は現在の函館西別院台町出張所付近から火葬場までの向かい側斜面にあったという。
長谷川さんによると、子供のころには付近に「文久」「慶応」など幕末の元号が記された無縁仏の石碑もあった。また、身元の分からない行旅病死者は四角のひつぎに入れられ運ばれ、焼かれずに土葬された。松の木の卒塔婆に「氏名不詳」「男」「三十歳位」などと記されて墓標になり、終戦まで続いたという。
埋められた数について長谷川さんは「終戦までに3千人はいると父に聞かされた」と語る。これについて、郷土史家で船見町の称名寺住職の須藤隆仙さんは「数については正確な調査が必要だが、無縁さんが火葬場の向かいに埋葬されたという事実は確か」と認める。
また、函館山を所有する財務省(旧大蔵省)の地籍では、葬られたかつての「台町42番地」は「墳墓地」となっており、長谷川さんの指摘とも一致する。
火葬場の道路をはさんだ向かいには、無縁仏の小さな「供養塔」がある。背面には「昭和十一年七月建立 函館市」とあり、長谷川さんによると「当時の墓石業者の組合が作り、寄贈したもの」という。
戦前は草の生えた傾斜地だったというが、現在は足を踏み入れることもできないほどクワやツル、イタドリ、松などが生い茂り、傾斜も急だ。霊園整備の課題も多い。事実関係の本格調査に加え鳥獣保護法との兼ね合い、一宗一派によらない方式、予算など山積している。
長谷川さんは「松の卒塔婆は2、3年で朽ちて、墓は形にも残らなかった。北海道の開拓などに従事し、縁あって函館の地で力尽きた無縁の方々の墓地をきれいにして、宗旨に関係なく供養したい」と願い、協力者を募っている。
冊子は57ページで、市立図書館などへ寄贈した。問い合わせは長谷川さんTEL0138・65・3938。
提供 - 函館新聞社
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