洞爺丸事故から60年 「恐怖忘れない」…コックとして乗船・秋保さん
update 2014/9/25 10:13
「船員が持っていた懐中電灯の光と、岸に流された後の住民の介抱がなければ、きっと息絶えていただろう。幸運な偶然が重なった」。1954(昭和29)年の台風15号により青函連絡船「洞爺丸」が函館港外で沈没した事故から26日で60年を迎える。同船にコックとして乗船していた函館市湯浜町の秋保栄さんは(81)は「一つ一つ思い出しても涙が出てくる。あのときの恐怖は忘れない」と振り返る。
秋保さんは当時、料理人を目指し、洞爺丸の姉妹船「景福丸」「大雪丸」に乗って修行を重ねていた。洞爺丸への乗船が決まったのは前日のことだった。「天皇陛下が乗った船に乗れるという憧れがあり、乗れると知ったときはうれしかった」
出航から間もなく、船は風に揺られ、大きく右舷に傾斜。機関室などで浸水が起こり、船内はパニック状態に。「ドーン、ドーンとすごい音がして、ソファやテーブルがぶつかり、海水が攻めてきた。真っ暗で何も見えず、息も苦しい。出口となるドアも遠く、もう駄目だと思った」
そんなとき、船員が持つ懐中電灯の光が見え、わずかな光を頼りに窓下へ這って移動。窓からデッキに出てしがみついて難を逃れるも、海へ放り出された。「肩を打ち、腕も思うように動かなかった。波に流され、気付いたら足が着くくらいの岸にいた」
北斗市七重浜の岸に打ち上げられた後、付近住民に支えられながらバスで病院へ向かった。「『しっかりしろ』と励まされた。その人たちには本当に感謝の気持ちでいっぱい。介抱がなければ力尽きていた」と語る。
一命を取り留め、2カ月入院した。入院中も亡くなった人のことや恐怖で眠れない日が続いた。その後、函館などで料理人の道を歩み、市内の高校でも講師を務めた。
「60年たっても、事故を絶対に風化させてはいけない。生存者として体験を語り、後世に伝えていくことは私の使命だと思う。自然を甘くみてはいけない」と思いを強くする。
ご注意:
●掲載している各種情報は、著作権者の権利を侵さないよう配慮の上掲載されるか、又は、各情報提供元の承諾の元に掲載されています。情報の閲覧及び利用については「免責事項」をよくお読み頂いた上で、承諾の上行って下さい。
●掲載中の情報の中には現在有効ではない情報が含まれる場合があります。内容についてはよくご確認下さい。