49年前 選手村の料理人、中島さん五輪に思いはせ
update 2013/10/14 10:04
14日は「体育の日」。1964(昭和39)年の東京五輪開催を記念して制定された(当時は10日)。49年前、東京五輪選手村の料理人として、道南から唯一派遣された函館市の飲食サービス会社経営、中島一さん(72)は「調理、保存に不便だった時代。あの時の苦労が人生の励みになった」と思いをはせ、2020年の東京五輪の観戦を楽しみにする。
中島さんは1956(昭和31)年、旧亀田町の桐花中学校を卒業後、市内松風町にあったレストラン「館」に洋食料理人として働き始めた。東京の名店・精養軒に勤務し、宮内庁御用達の経験を持つ橋本源丸さんに師事。厳しい指導を受けて腕を上げた。橋本さんは1年で他界したが、中島さんは持ち前の研究熱心さで技術を磨き、全日本司厨(しちゅう)士協会函館支部から推薦を受け、派遣が決まった。
北海道から派遣された23人中、当時23歳だった中島さんは最年少だった。札幌市内で日の丸がついた委嘱状を受けた時、「橋本さんとの1年があったおかげ。選手と同じぐらい頑張って五輪成功に一役買う」と決意した。
約3カ月前から仕込み作業に入った。ソースやマヨネーズなどの調味料も手作りで、作り置きが大変だった。海外で野菜不作だったため、国内から集めた。トマトは青かったものを温めて赤くするという苦労もあった。今のように便利な調理器具はなく、900人分のジャガイモの皮むきなど、連日午前4時から午後10時まで働いた。
配属されたのは女子選手村。各選手村の料理は、帝国ホテルの総料理長を務めた村上信夫さんの意見で導入されたビュッフェ形式で提供されたため、各料理の追加作業もこなした。規定で選手との接触は禁止されていたが、大柄な選手の食事量に驚いた。約2カ月間、厨房とフロアを行き来し、競技を見る余裕は無かった。「関係者から選手がおいしいと言っていたことを聞き、励みになった。国際紛争が落ち着いたころで、食べ物が少ない国から来た選手もいた時代だった」と振り返る。
五輪後は函館市内のレストランなどで勤務、80年に独立。居酒屋や函館市役所、千歳市内の企業で食堂を経営。1日の睡眠が3時間という時もあった。「五輪は自分も選手も頑張った。今も自分が頑張らなければ」との思いで働いた。
村上さんや、道内から東京五輪に派遣された仲間の半数以上は他界している。「20年の東京五輪開催決定が早ければ、みんなが喜んでいた思う。次の五輪に向け、日本の景気は良くなるだろうし、国民はわくわくしていると思う」と目を細め、「次は競技をゆっくり見たい。日本頑張れ」と笑顔を見せた。
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