函館空襲あす68年、目撃の三河さん、中山さん
update 2013/7/13 10:09
「あっちから米軍機が飛んで来たんだ」。函館市青柳町の三河清次さん(82)は、大森浜方向を指差した。当時住んでいた大森町の住宅街。1945年7月14日、向かい側の長屋が機銃掃射を受けたときの記憶は今も鮮明だ。
当時は呉服業を営む両親と3人暮らし。空襲警報のたびに家の明かりを消した。あの日。ごう音の後、好奇心で家の戸を開けた。
次の瞬間、長屋に降り注ぐ無数の銃弾が目に飛び込んできた。低空飛行する機体の大きさにも圧倒された。「うちが狙われていたかもしれない。震えが止まらなかった」。
付近住民は既に集団疎開し、襲われた長屋も無人だったが、数日後噂を耳にした。肉屋の家族3人の遺体が、むしろに包まれ道路脇に放置されていたという。「ただただ心が痛んだ」と悲痛な表情を見せる。
終戦後、人々は戻り、民家に明かりがともり始めた。「ご遺族の心境を思えば言葉もない。平和な生活がずっと続けばいいと願ったものです」と振り返る。
◇
「妹の手を握り、必死に走ったんです」。函館市元町の中山千代野さん(81)は、あの日の記憶が頭から離れない。米軍機の爆弾や機銃掃射が降り注ぐ中、当時小船町(現入舟町)にあった実家から高龍寺(船見町)へ妹の千代栄さんを連れて逃げ込み、難を逃れた。
高龍寺へ向かう途中、「頭の上から戦闘機の音がして、妹を引っ張って近くの民家に逃げ込んだ。そこにあった布団をかぶって、2人で震えていた」。その直後にごう音が響き、2人の上に吹き飛ばされた民家の破片が落ちてきた。
「近くに爆弾が落とされてね。私たちは無事だったが、外には血を流して、足を引きずるように歩く人もいた。でも助ける余裕なんてなかった…」と振り返る。
必死の思いで逃げ込んだ高龍寺を前に「とにかく恐ろしかったが、妹にけがだけはさせないように懸命だった。今は本当に楽しく過ごせている。もう二度とあんな思いはしたくない」と心から願っている。
◆函館空襲 1945年7月14、15両日、米軍機の攻撃で函館市が被害を受けた。市史などによると、駒止町(現弥生町)や大門、函館駅に爆弾が落とされ大規模な火災も発生、300戸以上が焼失し、70人以上が亡くなった。青函連絡船も甚大な被害に遭い、乗組員300人以上が亡くなった。
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