森田監督死去 函館でも功績惜しむ声
update 2011/12/22 10:47
「海猫」「わたし出すわ」など、函館を舞台にした作品を多く制作した映画監督の森田芳光さんの訃報が流れた21日、函館市内の映画関係者にも衝撃が走り、功績を惜しむ声が聞かれた。
森田監督の函館初ロケ地作品は「キッチン」(1989年)で、以来、市内でマンションを借り、脚本作りを行っていたこともあるほど函館を愛していた。「函館港イルミナシオン映画祭」ではシナリオ大賞の審査にも携わった。今月開かれた第17回開催(2〜4日)では、監督、脚本を務めた「僕達急行A列車で行こう」(2012年)がオープニング上映作品となり、森田監督はゲストで来場する予定だった。同映画祭実行委の米田哲平委員長は「上映の数日前、体調不良を理由にキャンセルとなった。風邪かと思っていたが、まさかこんな病だったとは。私たちとフランクにお付き合いくださり、感謝の言葉しか出ない」と驚いた様子だった。
市内で映画などの撮影を支援する「はこだてフィルムコミッション」の広部卓也事務局長は「函館映画を育ててくれた第一人者。来年3月公開予定の新作がシリーズ化した場合、函館でのロケを考えていると心底このまちを好きでいてくれたことにお礼を伝えたい」と話していた。
「キッチン」以来、撮影関係で親交があるカフェやまじょう(元町)経営の太田誠一さんは「函館に来ると映画監督を目指した学生のころの情熱的な気持ちになると口にしていた。自分にとっては兄のような存在だった」と唇をかむ。南茅部地区が主要ロケ地の「海猫」(04年)で、せりふのなまりや漁業指導をした豊崎町の漁師加我義幸さんは「撮影中は妥協せず真剣そのものだったが、撮影の合間に談笑したりと地元の人を大事にしてくれた」、よく来店していたという谷地頭町の鮨処「江戸松」の松谷敏店主は「ホッキやウニなどをよく注文して、スタッフと仲良くしていた姿が忘れられない」と振り返る。
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