「供養和讃」函館大火復興の支えに 高龍寺の亡き住職発刊の本

update 2011/5/8 10:31


 東日本大震災で漁村や街ががれきと化した東北地方と同様に、函館市も77年前の函館大火で、市街地が焼け野原となった。犠牲者を追悼し、大火の記憶を風化させまいと、当時、高龍寺で僧侶をしていた齊藤彰全氏(1901―60年)は「函館大火遭難死亡者 供養和讃」を作り、犠牲者を仏の国に送った。死者への鎮魂と被災者を忘れないという強いメッセージが、震災後の今、強く伝わる。

 和讃は、仏の徳や教えをたたえる和歌。齊藤氏の供養和讃は縦17センチ×横7センチの折りたたみ和装本で、広げると2メートル30センチ。死者2100人以上、被害世帯2万2000以上を出した函館大火から、約8カ月後の1934(昭和9)年12月1日に発行した。


  第二節
  あたり一面火の地獄
  煙に巻かれて地に伏すも
  猛火に包まれ焼きただれ
  右に左にまた西に
  老幼男女入り乱れ
  アレヨアレヨと泣き叫ぶ…


 和讃では火の海を逃げまどう姿や、命尽きて眠る遺体の惨状を七五調の歌で詠み、死者を救おうとする仏の願いを伝えている。街をのみ込む炎、逃げる人々、川や海に飛び込む姿など、絵筆による描写も「地獄絵」。

 発刊に際し、彰全氏は「精霊を心から復興の人柱としてお慰めしたい。月日がたつにつれて、ともすれば忘れがちになることはお気の毒に堪えない。当時を思い起こして涙でつづった真実味をお聴き取り願えたら幸い」と記している。

 彰全氏はその後、永全寺(現・函館市昭和2)を築いた。孫で現住職の齊藤隆明さん(42)は「祖父は檀家の関係もなく、大火で苦しむ人々のところに足を運び、ともに苦しみを分かち合ったと聞いている。慈悲の思いが強かったのではないか」と話す。

 供養和讃を、当時のNHK函館放送局スタジオで吹き込んだレコードと記念写真も永全寺に残る。彰全氏自身の声で吹き込み、家族は「青森県鰺ヶ沢の生まれなので、津軽なまりがひどくて思わず笑ってしまう」と懐かしむ。

 彰全氏の娘で隆明さんの母、彰子さん(64)は「父は大火のときに高龍寺に被災者を招き入れたと聞いている。この経験を後世に残そうと、供養和讃を作ったと思う」という。

 彰全氏が亡くなったのは60年5月24日。享年59。寺の本堂を建てる前に、自宅近くで火が上がった。すぐさま、火の気が迫る危険性はなかったというが、本尊のお釈迦さまを救いに走り、逃げる矢先の庭で本尊を抱いたまま息を引き取っていたという。「父は大火を経験しているだけに、火事の恐ろしさを知っていたのだと思う。この供養和讃の願いにある通り、火の用心、日々の防災意識を改めなければと思う」と彰子さん。

 隆明さんも「祖父の熱い思いを忘れずに、常に困っている人の気持ちになって布教していければ」と話している。

提供 - 函館新聞社


前のページにもどる  ニュースをもっと読む


ご注意:
●掲載している各種情報は、著作権者の権利を侵さないよう配慮の上掲載されるか、又は、各情報提供元の承諾の元に掲載されています。情報の閲覧及び利用については「免責事項」をよくお読み頂いた上で、承諾の上行って下さい。
●掲載中の情報の中には現在有効ではない情報が含まれる場合があります。内容についてはよくご確認下さい。

ページ先頭へ

e-HAKODATE .com
e-HAKODATEは、函館市道南の地域情報や函館地図、旅行観光情報、検索エンジンなど、函館道南のための地域ポータルサイトです