啄木の生涯に想いはせ、百回忌追悼会で講演
update 2011/4/14 15:11
函館ゆかりの歌人、石川啄木(1886〜1912年)の命日にあたる13日、函館啄木会(岡田弘子代表理事)による百回忌追悼会が東海山地蔵堂(住吉町)で開かれた。追悼講演では啄木の研究家、山下多恵子さん=新潟在住=が「我ならぬ我─啄木の節子」と題し、啄木の生涯と妻節子の関係について語った。
啄木は12(明治45)年4月13日、結核のため26歳の若さで生涯を閉じた。1周忌の時、啄木が函館時代に身を寄せた同人「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」を中心に、同会の母体が発足、現在まで活動している。この日は関係者や一般市民50人以上が集まった。
山下さんは、借金や女遊びを繰り返していた若いころの啄木について「いい加減な生活だったが、節子はそんな魅力的な詩人を求めていた。一方の啄木には打てば響いてくる¢カ在だったのでは」と説明。「自己の次に信じうべきものは恋人一人のみ。なんとなれば、恋人は我ならぬ我なれば也」との啄木の書簡を引用しながら、ライフワークに不可分だった節子の存在を強調した。
夫のためなら何でも待ったという節子は、夫の道楽に耐え切れず、上京から1年3カ月後に家出したが「友人の啄木を物心両面から支えた宮崎郁雨とも近しく、彼の存在も少なからずあったのでは」と山下さん。「この時ショックを受けた啄木は、大事な家族と文学に、どう折り合いをつけるか悩み、やがて新しい啄木が生まれた」と語った。
講演に先立ち、法要と近くにある墓参も行われた。
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