被弾船の惨劇…後世に、浅利さんが調査

update 2009/9/20 15:10

 「函館空襲を記録する会」代表の浅利政俊さん(78)はこのほど、1945年7月14日の函館空襲で、米軍機から爆撃を受けた青函連絡船「松前丸」(3485トン)乗組員の大半を救助した木造運搬船「第37蘭丸」(100トン)について調査した文献をまとめた。戦災から62年後の2007年、助けた人と助けられた人の偶然の出会いがあり、調査できたという。浅利さんは「救助劇や調査は偶然と奇跡のおかげだが、戦争は絶対あってはならないこと」と話している。

 浅利さんは3年前、戸井地区や恵山沖の空襲を調査中に、青函連絡船の戦災について疑問を持った。「死者数ぐらいしか分からない。その現場で何が起こったのかを明らかにしたい」と人命救助劇があった松前丸の調査を決意した。

 浅利さんの調べによると、松前丸は1945年7月14日早朝、貨物列車の積み込み中に空襲警報が鳴り、函館山穴澗沖方面に避難しようと移動したがグラマン機の攻撃を受けた。その後、七重浜沖で座礁するまでにも被弾し火災が発生。22人が死亡し、73人が救助された。ただ、逃げ場のない船上の惨劇、人命救助がどのように行われたかは不明だった。

 浅利さんは4年前の新聞から、助けられた松前丸乗組員の一人が函館在往の餌取利男さん(82)であることを知った。浅利さんは餌取さんの所在を調べ、今年8月に会って話を聞いた。そんな中で2007年7月、餌取さんは市内青柳町で開かれた青函連絡船殉職者法要に参列した際、隣に座っていた男性から声を掛けられた。「わたしは函館空襲の日、七重浜の沖で松前丸の船長や乗組員を救助した第37蘭丸の船長だった甲谷保蔵です。どなたか松前丸の乗組員の方を知りませんか」。神仏の引き合わせに二人は驚いたという。浅利さんは松前在往の甲谷さん(97)を訪れ、救助の様子を詳しく調査することができた。

 第37蘭丸は空襲警報が鳴った時、北ふ頭から穴澗沖に避難する際、偶然に松前丸の近くを航行した。松前丸の被弾を見たとき、船と乗組員の安全を考えて松前丸から離れたが、船員から「船長、助けるべ」と言われ、救助に向かった。高さが違う大きな船に横付けし、すべり台のようなものを付けて乗組員を移動させた。大やけどを負って海中に飛び込んだ船員を引っ張り上げた際、やけどで水ぶくれになっていた皮膚が抜け落ちた人もいたという。

 第37蘭丸は同年11月、運輸省から人命救助の尽力が認められ、船員勤労賞状が贈られた。賞状は甲谷さんが所蔵しており、これまで知られなかった事が形として残っていた。浅利さんは「戦争当時から終戦時は、緘口(かんこう)令などの理由で事実を話すことができない人が多かった。ようやく打ち明けてくれる人が多く現れ、それをまとめ、後世に伝えることができるのは、戦没者への本当の供養になると思う」と話す。

 七重浜から函館港を眺める浅利さんは「今年は函館開港150年という節目。この開かれた港で起こった事実を今後、平和に生かしてもらえれば。でも、わたしの調査は小さな点。点が線になるよう、多くの調査をしていきたい」と決意していた。

提供 - 函館新聞社




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