戦禍の記憶今も鮮明に 函館空襲から65年で住吉さん

update 2010/7/14 10:59

 太平洋戦争終結の1か月前となる1945年7月14、15の両日、函館は米軍機の攻撃により大きな被害を受けた。陸上でも70人以上の死亡が確認されているが、それ以上に甚大な被害を受けたのが、津軽海峡を航行していた青函連絡船。函館、青森両港停泊中も含め計10隻で438人の船員が犠牲になった。第四青函丸に事務掛官補として乗船していた住吉猛三さん(享年46)も犠牲者の一人。二女の恵子さん(81)=函館市松川町=は65年が経過した現在も当時の様子をはっきりと記憶する。

 「『船がやられた!』という声が聞こえ、母親(エツさん)はあわてて海岸に飛び出していったが、陸からは何も様子が分からなかった」。当時は海岸町に住んでいたため、函館山の裏側付近に沈没した第四青函丸の姿を確認することは不可能だった。14日早朝の函館港出航直後に爆撃を受け、わずか1時間あまりで海底に沈んでいった第四青函丸。船員78人中救助されたのはわずか24人だった。

 猛三さんの遺体はついに発見されることなく、遺留品なども一切見つからなかった。「もしかしたら生きて打ち上げられ、記憶を失ったまま生活しているかもしれない」と、しばらくは街中で父に似た男性の姿を見つけると、顔を確認していたという。

 当時、函館大妻女子高等技芸学校(現在の函館大妻高等学校)の学生で、1945年4月から学徒援農として十勝地区の農家に動員されていた。お盆に合わせて7月13日に函館に帰省。13日から連絡船に乗り込んでいた父とは、15日に久しぶりの対面を果たすはずだった。

 「まさか永遠の別れを迎えるとは思っていなかった。父からは十勝に行く前に『農家の仕事をしっかりと手伝うように』と書かれた手紙をもらい、今でもお守り代わりに大切に残している」と明かす。

 大黒柱を失った一家は、エツさんと三つ年上の姉、恵子さんの3人で、まだ小さな3人の弟と妹の面倒を見なければいけなかった。恵子さんは卒業後に松川郵便局に就職し、定年まで40年あまり勤め上げた。「父が亡くなった直後の9月に誕生した弟は小さいうちに亡くなったが、他の家族は大きな病気をすることもなかった。これは父が見守ってくれたのだと思っている」と振り返る。

 母エツさんは青函連絡船殉職者遺族会の初代副会長を務め、1985年に82歳の生涯を閉じた。恵子さんも現在、同遺族会の幹事として毎年行われる慰霊法要などに参加している。「連絡船が廃止となり22年が過ぎ、もうすぐ新幹線がやってくる時代だが、戦争で失われた命の記憶を風化させず次世代にしっかり引き継いでいきたい」と話している。

提供 - 函館新聞社




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