函館大火から75年。花田アイさん 惨事 今も脳裏に
1934(昭和9)年3月21日夜、住吉町の民家から上がった火の手は折からの強風にあおられ、函館市内の3分の1を一気に焼き尽くし、2100人余りの命を奪った。函館最大の火災被害として記録に残る「函館大火」。その惨事は被災者の胸に強烈に焼き付いている。市内に住む花田アイさん(85)も恐ろしく、そして悲しい記憶をたぐり寄せながら21日を迎える1人だ。あの悲劇から今年で75年−。
「火が出た!」「逃げろ」。当時、宇賀浦町に住んでいた小学4年の花田さんは近所の人の声を聞いて母ときょうだい4人と逃げ出した。幼い弟をおぶった母を追い、必死に歩いたのを覚えている。逃げ惑う人々。あふれる怒声と泣き声。「風で大きな火の粉が飛び、逃げる人の荷物に火が燃え移っていた」。住み慣れた街は惨状となっていた。
一家は日乃出町にあった砂山を目指したが、人混みで思うように進めなかった。「離れたら駄目だよ!」。母の声を頼りに、海岸通りをひたすら湯川方面に向かった。
やっとたどり着いた倉庫に避難し、寒さに震えながら見知らぬ人たちと一晩を明かしたが、「一睡もできなかった」という。倉庫には翌朝、家族や知人を探す人が次々に訪れた。近くの浜にはたくさんの水死体があがり、むしろにくるまれ並んでいた。
父は不在で家族は皆無事だった。ただ、祖父は避難中、着物に火がついた花田さんと同じ年頃の少女に「助けて」とすがりつかれてその火が燃え移り、顔と体の一部にやけどを負った。少女がその後どうなったかは分からない。
宇賀浦町の自宅は全焼。数日後、一家は父の仕事場があった松前町に一時引っ越すため末広町の桟橋へとトラックで向かった。移動する中で目にしたのは、見渡す限りの焼け野原。「形ある物はほとんどない。真っ黒く焼けた倉庫がポツンポツンとあるだけ」。変わり果てた街の様子にあぜんとした。
花田さんは20代前半で結婚。夫の実家は34年当時宝来町で米屋を営んでおり、義母は発火直後、孫の手を引き、嫁入り道具の炉鉤(ろかぎ)と顧客台帳を抱えて避難したという。
義母は隠居後も亡くなるまでその炉鉤を大事にし、毎朝磨くのが習慣だった。「きれいにしないとおばあちゃんが泣く」。火の手を逃れた金色の炉鉤は、花田さんの手で今もピカピカなまま保管されている。
提供 - 函館新聞社
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