木村さん、函館山 模型で再現

 道アウトドアガイドの木村マサ子さん(63)=函館市住吉町=は、明治中ごろまでの函館山を模型で再現することに取り組んでいる。函館山は明治後期から戦時中まで要塞(さい)があり、その建設のため、頂上周辺や山の一部を削った。木村さんは「要塞が作られる前の姿や、市民がどのように山を利用していたかを調べるためのイメージづくり」と話している。

 函館要塞は明治30年代から砲台や戦闘指令所などの施設が造られた。木村さんは1985年ごろ、函館山は要塞建設や道路工事などで、明治中ごろまでと現在では山頂部の標高が違うことを知った。91年から2003年まで、同市青柳町にある函館山ふれあいセンター長として、山の自然や歴史について調べたほか、2000年から5年間、函館産業遺産研究会(富岡由夫会長)の活動として函館要塞の調査を行った。

 今回はそれらで研究したことをまとめることと、さまざまな体験学習に生かしてもらおうと模型づくりを考えた。「資料や地図を並べても山の姿のイメージは浮かばない。それらの重要な要素をまとめた模型を作れば山のことが良く伝わる」

 同センター長時代には、全盲の人が登山をする際、函館山や歩くコースのイメージを持ってもらうため模型を自作し触ってもらった。函館山の模型製作は今回で4つ目。姿ばかりでなく、当時の山と市民の関わりを明らかにしようとあらゆる資料を集めた。中心になったのは明治政府が要塞を作るため山を測量した地図。このほか、1834(天保5)年に山に置かれた西国三十三観音像の配置図など。54(安政元)年にペリー提督が来函した際に随行者が函館山頂から街を見下ろした絵に描かれていた、山中の鳥居やイチイの木の位置も調べた。

 山頂部は現在334メートルだが、要塞工事に入る前は348メートルあったとされる。砲台の台座を造るために削ったという。そのほかの山の変形について、要塞建設当時の建築技術では、山を掘ることは難しく、山を削りさら地にし、コンクリートなどを積み上げてドーム状にするため、山の一部で低くなったと予想している。また、市街地を見渡すため、山の中腹にある一部の山や山中各地にあるこぶのような部分を削り取ったとされる。木村さんは「要塞調査の際、地質や木の植生を見ると明らかに山を削り取ったことが分かる」と指摘する。

 模型は、幅約60センチ、奥行き約40センチ。地図の等高線を張った厚さ5ミリの発砲スチロールを線に沿って切り段上に重ねる。高さは土台部分を含め約15センチ。今は山の形ができており、削られた場所が分かるように色付けするほか、天保年間に置かれた観音像の場所、当時の遊歩道も再現したいとしている。「この作業ができるのは私しかいない。函館山に要塞があり、要塞時代に山が立ち入り禁止だったために今でも多くの貴重な植物が自生していることを知らない市民が多い。山の歴史を知ってもらい、山を大切にしてほしい」。山を研究した集大成を伝える模型は春に完成する。

update 2009/1/4 15:44
提供 - 函館新聞社


前のページにもどる  ニュースをもっと読む


ご注意:
●掲載している各種情報は、著作権者の権利を侵さないよう配慮の上掲載されるか、又は、各情報提供元の承諾の元に掲載されています。情報の閲覧及び利用については「免責事項」をよくお読み頂いた上で、承諾の上行って下さい。
●掲載中の情報の中には現在有効ではない情報が含まれる場合があります。内容についてはよくご確認下さい。

ページ先頭へ

e-HAKODATE .com
e-HAKODATEは、函館市道南の地域情報や函館地図、旅行観光情報、検索エンジンなど、函館道南のための地域ポータルサイトです