洞爺丸台風から54年。生き残った乗組員の三島正明さん

 【北斗】1954(昭和29)年9月26日、台風15号が道南を襲い、青函連絡船の客船「洞爺丸」と貨物船4隻が転覆、沈没した。1400人超の犠牲者を出した青函連絡船史上最大の悲劇を今も知る人が北斗市にいる。洞爺丸の乗組員だった三島正明さん(83)。脳裏には今も、あの日の光景が刻まれている。「洞爺丸台風」の事故から54年―。今年も慰霊の日が近づいてきた。

 青函連絡船遭難体験記録「台風との斗(たたか)い」(55年、青函船舶鉄道管理局発行)によると、洞爺丸はこの日午後6時半過ぎに函館桟橋を出航したが、約20分で突風に見舞われ、函館港付近で投錨仮泊した。

 当時29歳だった三島さんは事務員として乗船。船内は非常部署発令となり、三島さんは2等ホールの旅客の誘導を担当し、救命胴衣の着用などを指導した。16歳から船で働いていたが、初の事故に遭遇し、「不安だったが、乗組員の使命として客の暴動や混乱が起きないよう『船員の指示に従ってください』と声を出し、冷静な行動を心掛けた」という。「恐怖心から客は一カ所に固まり、寄り添うように手を取り合っていた。子をかばう親の様子も頭から離れない」

 機関室が浸水し、操船できなくなった船は、沈没を避けるために七重浜の砂地に座礁した。「座礁後、船の傾斜角度は激しくなり、一瞬で転覆した。座礁場所や船の角度が悪く、横から波を受けたようだ」と振り返る。

 転覆直前、危険を感じた三島さんは客を左舷側ドア付近に誘導。頭上から波が打ち付ける中、恐怖で興奮状態の客の手や着衣を鷲掴(わしづか)みにして、ドアから数名を船外に引きずり出した。しかしデッキ脱出後、客とともに波にさらわれ、海に投げ出された。気がつくと砂浜に打ち寄せられていた。疲れ切って足は動かず、四つん這いで陸に上がった。

 大きなけがはなく、事故後は遺族との連絡や遺体確認などに追われた。撮影した七重浜付近の現場写真は今も保管している。

 その後は船上人生を勤め上げ、80年の退職後、妻の照子さん(83)と一緒に山登りを始めた。13年掛けて百名山の登山を達成。百山目となった青森県八甲山大岳を登頂したのは奇しくも98年の9月26日。殉職した仲間や客への祈りを込め、山頂から津軽海峡の方角に向かって手を合わせた。

 三島さんは乗組員としての責務や後悔の念から、最近まで事故について一切を語らなかった。26日の慰霊法要には今年も出掛ける。

 洞爺丸台風 九州、中国地方を北上し、函館港沖で洞爺丸、第11青函丸、北見丸、十勝丸、日高丸の青函連絡船を転覆させた台風15号の呼び名。函館市史によると、乗客・乗員合わせて死者1430人(洞爺丸は1155人)、生存者は202人(同159人)のほか、不明者も多数出た。洞爺丸は豪華客船のシンボル的存在だった。この事故は1912年のタイタニック号に次ぐ海難事故とされた。

update 2008/9/23 13:11
提供 - 函館新聞社


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