発掘の成果を解説…上ノ国町教委荒神堂説明会

update 2008/8/31 09:47

 【上ノ国】中世の山城・勝山館跡(国指定史跡)で、城代・蛎崎基広(1509―48年)をまつる「荒神堂(こうじんどう)」の発掘調査を進めている上ノ国町教委の現地説明会が30日開かれ、住民や歴史ファンら約40人が参加し、町教委の塚田直哉学芸員の話に熱心に耳を傾けた。

 基広は主君の暗殺計画が発覚して殺害された。松前藩の歴史書「新羅之記録(しんらのきろく)」は、基広の埋葬場所近くにお堂を建てて、亡霊を鎮めたと記している。江戸時代後期の1841年には松前藩主が夷王山を参拝する際、周囲に玉石を敷き詰め、石積みや柵を設けるなどの改修工事を行ったとの記録もあるという。

 塚田学芸員は「江戸時代に作り直された荒神堂の痕跡は確認した。江戸時代より古い礎石(建物の基礎に使われる平らな石)の列も見つかった。最初に作られたお堂の痕跡かも知れない。今後詳しく調べていきたい」とした。

 荒神堂周辺の発掘調査では、新たに東側に面した沢沿いの斜面で5基の墓を確認。町教委では、地層や副葬品などの特徴から2基は江戸時代のもの、3基は勝山館が築かれた中世の墓とみている。中世の墓のうち1基は頭を東の方角に向け、足を伸ばして体をあおむけにするなど、アイヌ特有の埋葬様式がみられた。もう1基は和人の墓で、頭を北に向け体を折り曲げる「屈葬」だった。棺おけの痕跡も見つかった。

 勝山館の背後にある夷王山東斜面には、600基余の和人やアイヌの墓が密集する「夷王山墳墓群」があるが、勝山館の正面に当たる荒神堂付近で複数の墓を確認したのは初めて。塚田学芸員は「この場所で墓が複数見つかったのは予想外。今後の調査で意味合いを考えていきたい」とし、参加者も歴史のロマンに思いをはせていた。

提供 - 函館新聞社



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